記事一覧

「コンタクト」

 「先生。今日、この子、どこか変じゃないですか?」。いきなり一人の女子生徒が、友達の女の子を指差して、こんなことを言います。「いつもと違っているでしょ?」「・・・・・・?」「コンタクトを付け忘れたので、ノルウェー産の塩サバみたいな目になっているでしょ」「いつもと同じように見えるけどねぇ」「それは彼女に侮辱ですよ」「そうかなぁ・・・?」。よくよく聞いてみると、コンタクトを付けると瞳が一回り大きくなるというのです。「この子ね、休みの日なんか、カラーコンタクトを付けるから、フランス人形みたいになるんですよぉ」「そんなことないって」コンタクトを忘れた女の子も口をはさみます。「不燃物置き場に捨てられた人形みたいって言いたいんでしょ?」。
 最近では使い捨てのコンタクトレンズが普及しているので、コンタクトを「着替え」たりすることも別に特殊なことではないようです。ふと思い出しました。「そういえば以前、男子生徒がコンタクトを体育館で失くして大変なことになったなぁ・・・」。10年くらい前のことでしょうか。体育の授業中に落としたコンタクトレンズを求めて、クラス全員、ホフク前進するような体勢で、体育館のフロアー中をはいずりまわりながら、紛失物を捜索しました。その時残念ながら、結局、コンタクトは発見できませんでしたが。
 「あぁ、それからこんなこともあったなぁ・・・」。「バスタブ中にコンタクトレンズを落とした」と、家の者が言うので、風呂の残り湯を洗面器ですくって、レンズを探したことがあります。「あの時は、砂金をすくうように、洗面器1杯ずつの残り湯を調べたなぁ」。結局、コンタクトレンズは湯の中から見つからず、風呂の水を全部調べた後に、コンタクトがバスタブの縁にはりついているのを見つけました。その当時、コンタクトレンズはまだ高価だったので、徒労を嘆くよりも、ホッとしたことを覚えています。
 こんなことを思い出しながら、気軽に装着して、捨てることができるコンタクトに、現代の風潮を感じました。

「修学旅行不参加」

 ある先生から、高校生の時、修学旅行の参加を学校当局から拒否されたという、「悲しい」話を聞いたことがあります。旅行前のある日、担任の教師から呼び出しがあり、「あのなぁ、君。…修学旅行に行かんでくれんか・・・」と、言いづらそうに言われたそうです。「何で、ですか?」「君ねぇ、『朱に交われば赤くなるという』ということわざを知っているよなぁ・・・」。
 高校生であった、その先生はこう考えました。「確かに、今までいろんな人間とつきあってきた。交友関係の中には、他に悪影響を及ぼすひどいヤツもたくさんいたけど、それがいけなかったのかなぁ・・・」その表情を見て、担任教師が、こうぽつりと言ったそうです。「…君が朱なんだ」。教育者にしては、あまりにも単刀直入過ぎる人物評です。
 また別のある先生は、長野・志賀高原のスキー修学旅行の引率で、高校時代に訪れたのと同じホテルに偶然宿泊しました。「この部屋に何日も正座させられたのかぁ、と思うと懐かしかったです」「・・・?」「最終日だけでしたね、スキーをさせてもらったのは・・・」高校生だった先生は、修学旅行先での喫煙がばれてしまい、雪山で「謹慎処分」を受けていたのです。スキーに行って骨折したのではなく、骨折してスキーに行って湯治生活を送ったバカ(私です)と、どちらがましでしょうか。
 「参加できなかったこと」と、「参加しても参加したことにならないこと」と、どちらが情けないでしょうか?

「美容部員」

 数年前の卒業生から電話で「就職が決まりました」と報告がありました。女子クラスの卒業生で、専門学校のメークアップ専科に進学していたのですが、念願叶って「化粧品会社の美容部員に採用された」とのことでした。以前、専門学校で実習中の彼女の写真を見ていたのですが、その時不思議に思ったのは、高校生の時と、化粧をばっちりした容貌があまり変わらないことでした。
 もちろん高校生の頃にも、化粧に強い関心を持っていて、「持っていた」どころではなくて、いろいろと生徒指導関係諸方面にご迷惑をおかけしたのですが、やはり「素質」があったのでしょうか。彼女の場合、「素材の持ち味を十分に生かした」感じがするのです。そういう意味では天職なのかもしれません。昔、「映画は原作をしのげるか!」というコピーがありましたが、それをもじって言えば、「化粧は実物をしのげるのか!」ということになり、これから彼女は職業として、「実物をしのいだ」満足感をお客に与えなければなりません。時には、「イワシの頭と野菜の切れっぱしと冷やご飯でフランス料理のフルコースを作れ!」というような、無茶な注文があるかもしれません。…今、話が非常に危険な方向に向かっている予感がしますが、とにかく「就職おめでとう!」という気持ちと同時に、「お客の要求の高い、大変な職業だなぁ…」とも思うのです。

"九高しぐさ"ミニ講話 「九高生よ!“礼節”を尽くせ」

“九高しぐさ”ミニ講話を始めます。本日の“しぐさ”は、「九高生よ!“礼節”を尽くせ」です。

礼節とは、「社会の秩序を守るための礼儀作法を節度のある行動で実践すること」です。一般に相手の感情を理解して行動することを「礼儀」と呼び、あいさつや言葉遣い、服装等、社会の中には相手を敬うための様々な礼儀作法が存在します。そしてその礼儀作法に、相手に敬意を表す節度ある行動がプラスされることによって生きた礼儀作法となります。この節度のある行動によって洗練された礼儀作法が“礼節”です。形だけの礼儀、すなわち、見た目や敬語を使うことだけでは礼節を尽くしているとは言えません。皆さんが毎日授業開始と終了時に実施している“礼”を考えてみましょう。学級委員の短切明瞭な号令のもと、クラス全員が一糸乱れぬ立ち居振る舞いで先生方に礼をする。礼をする際には大きな声で「お願いします」「ありがとうございました」と、先生方に敬意を払い感謝にあふれた言葉を心の底から発することができて初めて“礼節を尽くす”と言えるのです。いつ言葉を発したかわからない学級委員の号令、だらだらと起立してきちんと礼をしないまま、着席だけは一人前に誰よりも早い・・・。こんな状態では、“礼節”のかけらも感じられません。皆さんのクラスはどうですか?中国の“管子”という書物の中に、「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。この言葉は、「生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえられるようになる」と解釈されているようですが、この解釈には注意が必要です。「衣食足りて」とは、欲しいものが何でも手に入り生活に余裕ができるという意味ではありません。生きていく上で必要最小限のものに満足し、それ以上を求めない境地を指します。ですから、「衣食足りて礼節を知る」という言葉は、どんな境遇にあってもその境遇を受け入れることによって人生の機微を知り、礼儀を重んじ節度ある行為を通じて、他に対し温かく心豊かに接することができるようになることを意味しているのです。“礼節を尽くす”とは、この境地に至ることです。世界の中でも非常に恵まれた環境にある日本は、物の豊かさに関しては決して他の国々に劣ることはありません。しかし、心の豊かさが失われていると言われており、「衣食足りても礼節を知らず」という状態が長く続いています。九高生にはこのような心の豊かさを失ってほしくない。きちんと“礼節を尽くす”ことのできる立派な社会人・立派な日本人であってほしいと思うのです。本日の九高しぐさ「九高生よ!“礼節”を尽くせ」は、皆さんが足ることを知り心豊かに人生を送るために、礼儀を重んじ節度ある行為をひたむきに実践することを目指したしぐさなのです。
さて、礼儀を重んじ節度を持った行動とは、具体的にはどのような行動を言うのでしょう。礼儀作法のひとつである“おじぎ”を考えてみましょう。おじぎをするという礼儀作法は誰もが知っていると思いますが、節度を持ったおじぎの仕方をきちんと理解し実践している人がどれだけいるでしょうか。皆さんはおじぎには3種類あることを知っていますか。それは“会釈”“敬礼”“最敬礼”の3種類です。“会釈”は上体を腰から15度くらい前へ傾け、日常の軽い挨拶をする時に用いられます。“敬礼”は上体を腰から30度くらい前へ傾け、相手に対して丁寧に敬意を表す一般的なおじぎです。“最敬礼”は上体を腰から45度程度深く前へ傾け、冠婚葬祭や感謝を示す時、お詫びをする時に用います。おじぎをする時に首だけ曲げてあごを前に出すようなしぐさは、気持ちを伝えるところか、礼儀知らずで相手をバカにしているような印象を与えます。“おじぎをすること”は礼儀作法のひとつ。それを知識として知っているだけでは不十分で、きちんと節度を持って実施できるようになることで礼儀作法に磨きがかかり、その動作に上品さが加わるのです。社会で一流と呼ばれる企業では、このようなおじぎの教育を徹底して行っています。上品で洗練された礼儀作法こそが、相手に礼節を尽くし社会で一流と認められる必須の要件だとわかっているからです。九高生も地域社会から一流と認められるように、日々実践している授業の開始・終了時の“礼”に、礼節を尽くしてもらいたいと思います。皆さんの言葉遣いにも“礼節を尽くす”ヒントが隠されています。最近の若い人がよく使う言葉遣い「すげえ、うめえ、こええ」等は、“べらんめえ言葉”と呼ばれていて、江戸下町の職人などの間で使われた、威勢のいい荒っぽい調子の言葉です。“べらんめえ”とは、「馬鹿め」を意味する「べらぼうめ」が変化したもので、相手を罵ることを意味します。そんな言葉を使っていては“礼節を尽くす”態度など養われるはずがありません。より洗練された上品な言葉遣いをするよう心がけましょう。荒んだ言葉を使用すると、皆さんの心まで荒んでしまいます。他にもコンビニやファーストフードなどの駐車場、駅のホーム等で平気で地べたに座って醜態をさらすジベタリアンや飲食物を口にほおばりながらあちらこちらを闊歩する人々等、日本人としての礼儀作法に反する立ち居振る舞いが目に余る世の中になってしまいましたが、「九高生よ!“礼節”を尽くせ」という九高しぐさを実践する皆さんは、常に洗練された礼儀作法を身に付け、節度ある行動を実践する求道者であってほしいと思います。「礼節」を知り「礼節」を実践して初めて一人前の人間といえるのです。

本日の九高しぐさは、「九高生よ!“礼節”を尽くせ」でした。次回の"九高しぐさ"は、「うそかまことか、九高生のものさし」です。

★失敗する人の十二ヵ条★

失敗する人の十二ヵ条

1.現状に甘え逃げる
2.愚痴っぽく言い訳ばかり
3.目標が漠然としている
4.自分が傷つくことは回避
5.気まぐれで場当たり的
6.失敗を恐れて何もしない
7.どんどん先延ばしにする
8.途中で投げ出す
9.不信感で行動できず
10.時間を主体的に創らない
11.できない理由が先に出る
12.不可能だ無理だと考える

「一流たちの金言」より(致知出版社)

★成功する人の十二ヵ条★

成功する人の十二ヵ条

1.人間的成長を求め続ける
2.自信と誇りを持つ
3.常に明確な目標を指向
4.他人の幸福に役立ちたい
5.良い自己訓練を習慣化
6.失敗も成功につなげる
7.今ここに100%全力投球
8.自己投資を続ける
9.何事も信じ行動する
10.時間を有効に活用
11.できる方法を考える
12.可能性に挑戦しつづける

「一流たちの金言」より(致知出版社)

「バレンタイン・デーIII」

 まだまだ、バレンタイン・デーの問題点についての指摘が続きます。
③チョコレート贈与について、「形骸化」もしくは「カモフラージュ」的行為の著しい横行。
 「日頃のご愛顧」にもとづく、「義理」とか「人情」という言葉のつく、「取った取られた」だの、「切った張った」などの贈与行為は任侠道に任せて、純粋な愛情の発露にもとづく、今こそバレンタイン・デーの原点に帰るべきだと思います。そして、ウソならウソと、最後まで騙し続けて欲しいのです。 
④チョコレートについての購買及び消費行動の偏りが、日本経済に及ぼす影響。
 日本の1年間のチョコレート販売が、この日に向けて70%も集中しているということは、デジタル放送に切り替わる前のテレビの駆け込み需要のようなものではないでしょうか。・・・まったく違います。「そして、それのどこが問題ですか?」「その後、チョコレート売り場が縮小されて、残りの30%しか売れなくなります」「・・・?」
 最後に、以上様々な問題点について、究極的かつ具体的な解決法を提案して結びとします。
「毎年2月14日には、学校に、学習に関係していないものを持って来ることを特に厳重に取り締まり、もし発覚すれば没収すること」。
 ところが、こんな粋な女子生徒の言葉にホロリとした、というエピソードを聞いたことがあります。「先生。禁止されたものを持って来たので、先生が没収して、持って帰って下さい」「・・・・・・」。
 以上、読み直して思いました。「どう考えても、ひがんでいるとしか思えないなぁ・・・」。むしろこんなテーマで、ブログのネタを3日間もつないだことを反省しています。

「バレンタイン・デーII」

 こんなことを書くと、「チョコレートをあまりもらえないから、ひがんでいるんじゃないの」という、邪推を受けることになりかねませんが、私の公正無私な主張の根拠を、これから怜悧なまでに論理的に述べることにします。書き出しから、やや冷静さを欠く展開になりましたが、本日は社会科学的に分析して、「日本の将来のために、バレンタイン・デーのあり方を憂える」という主張の核をなす問題点について列挙して述べたいと思います。問題点は4つあります。(順不同)
①チョコレートを不特定多数にばらまく世間の傾向。ところが、そんなトレンドにもかかわらず、ある種の「選考基準」を設けて配付(あるいは贈与)することの不当性。
「今年は、たくさんの人にチョコレートあげ過ぎちゃった」という声を巷で耳にする時、「たくさんの人」に自分が属していないさびしさは何とも言えないものです。しかも「あげ過ぎちゃった」という、過剰配付への反省の気持ちも込められている場合、その疎外感・寂寥感は、いくら家庭で慣れているをいえども、骨身にこたえるものです。そんな時、思わずこう言いたくなります。「君たちは、ばらまきの批判を受けながらも、支給基準を設ける、みんしゅ党か!」。
②チョコレートの贈与に対して、やたらと見返りを求める風潮。
数少ないチョコレートの配給がなされる時、「先生、ホワイトデーはよろしくね」という、まるでお返しの日を仕掛けたお菓子屋さんの手先のようなセリフが聞かれるのは、大変悲しいことです。「無償の愛こそ真実の愛」。そんな、アガペーの真髄を理解し、少なくともお返しを強要するのはマナー違反だということを、ヤマトナデシコのみなさんに認識して欲しいものです。

「バレンタイン・デーI」

 「2月14日。男女が互いに愛を告白し、贈り物をする。日本では、女性から求愛してもよい日とされる」。
 正確を期して大英図書館に行く代わりに、手軽に間に合わせるため手元にあった国語辞書を引いて、その定義を確認してため息をつきました。そして、この神聖ともいえる、異教徒の迫害にあって殉死したキリスト教の聖者に因んだ「愛の日」について、「我が国が、どこか間違った方向に進んでいるのではないか」ということを憂えました。毎年この日が来ると、社会現象的に、社会風俗的に、民衆心理学的に、そして消費経済学的に考え、「超高齢化社会」「少子化」「年金」など、他に問題が山積する中、この国の行く末のことが思いやられ、胸が痛くなってシンキンコーソクが起りそうになります。
 いっそのこと、閏年(うるうどし)だけの2月29日と代わって、4年に1度バレンタイン・デーがやって来るのならば、「今年はオリンピックイヤーだから仕方がないなぁ」と、問題点と矛盾点に満ち溢れたこの日の存在に耐えることもできるでしょう。しかし、毎年必ず、イヤミのように欠かさず、2月14日はやって来ます。
 むだに、カレンダーに願ってみました。「せめて、この日が土曜日か日曜日に当たってくれたらいいのになぁ・・・。いっそ法改正により、建国記念日にするか」。かけっこが苦手な幼稚園児が、「明日、雨が降って運動会が中止になったらいいのになぁ・・・」と、運動会の前夜に呟くようなことを口にしました。そしてついでに、誰にも目を合わさないように呟きました。
「今年はもう少し、チョコレートをもらえると思ったけどねぇ・・・」。

「出校日と高血圧」

 本日は3年生の出校日でした。私大の一般入試がほぼ山を越えて、久しぶりに顔を合わせて、クラスの雰囲気も盛り上がっています。「ひさしぶりーっ!」「元気にしていたぁ?」。互いにおそらくメールのやり取りくらいはしていたはずなのですが、やはり顔を直接合わせることは格別なのでしょう。朝からの異常なテンションの高さに、ひさしぶりにHRをした者として身体がなじめず、血圧を上げることで、雰囲気に順応するしかありません。・・・別に意図的なものではありません。「高気圧ガールズと高血圧おじさん」。以前、HRについて、こんな表現を用いたことがありますが、高血圧は薬で抑えられても、若さの高気圧的ハイテンションは抑制が難しいのです。
 HRの伝達内容として、最後の頭髪服装検査の実施の確認など、「エ――――っ!」という、不平不満の反応が出そうな情報を先にすませて、嵐がおさまるのを待つしかありません。学校から離れた生活による、「放し飼い」というか「野生化」の影響が時折感じられ、わずか1時間ほどのHRでも、ぐったり疲れを感じてしまいました。
「次の出校日はいよいよ月末かぁ・・・」。それから卒業式を含めてわずか残り4日間の高校生活です。「それでも、月末まで私大の入試の合格発表も続くし、興奮して血管が切れないようにしなくちゃねぇ・・・」。ケッカンの切れ目が縁の切れ目?エンギでもない!

ページ移動