九高の四季

九高の四季

2014年5月の記事

  • 2014年05月29日ブログの噺

    「親友」

     昼休み終了前、授業のために少し早く教室に行くと、腕相撲ができそうなくらい近い教卓の正面の最前列で、いつも仲良く並んで座る女子生徒2人組の一人の席がポカリと空いていたので、隣りの「相棒」にたずねてみました。

     「あら、今日は○×さんは、どうしたのかなあ?」「知りません」「欠席?」「そうみたいですね」「どうしたんだろう?親友だから、知っているよね」

     と、次の瞬間、耳を疑うようなコメントが聞こえました。

     「いいえ。・・・別に、親友じゃありませんから」

     まったく表情を崩さない真顔のまま、わざとよそよそしく淡々とした口ぶりですが、特に2人が喧嘩をしたわけでもないようです。

     おそらく彼女達は3年間同じクラスで、この上ない「仲良し」なので、家族や姉妹のような親密さゆえに、「無関心」「冷淡」を装おうことが身に付いているのでしょう。日本人は「身内」と考える人に対して、「自己同一視」した立場を取る習慣があり、冷淡に厳しく接したり、コメントしたりする傾向があるようです。

     ただし此の頃では、「謙遜は美徳」とされる日本文化に根ざした行動様式の中でも、いささか「時代遅れ」の感がする言葉が増えてきました。たとえば、古い日本語にある「豚児」「豚妻」などという表現は、いくら「身内」を卑下する文化のあるわが国であっても、現代では使われない「死語」でしょう。

     「トンサイか・・・。それにしても、文字の組み合わせだけを見ても恐ろしい、口にするのも危険な言葉だな・・・」

     これによって引き起こされる、「舌禍」とでも呼ぶべき家庭内での壮絶な「修羅場」の血塗られたシーンが、脳内に広がりました。

     さて、その次の日、昨日欠席した女子生徒に、偶然廊下ですれちがったので、たずねてみました。

     「昨日はどうしたの?」「ええ、ちょっと体調不良で休みました」「君の『親友』が心配していたよ」「親友って誰ですか?」「お隣の△◇さんだよ」「・・・別に、親友じゃありませんから」「・・・・・・・・・・・・」

      同じコメントが口にされたことに驚かされましたが、どちらの女子生徒も、まったく同じ間合いで、同じセリフを言うところから判断すると、やはり「完璧に気の合ったシンユー」であることに間違いはないのでしょう。

     思わず、つぶやきました。

     「メールでいくらでも『現況』を更新して伝えられる現代では、欠席している友人について、『病気で休んでいるみたいですけれど、彼女のことが、心配で、心配でたまりません』なんていうのはウソ臭くって、リアリティーに欠けるんだろうな・・・」

  • 2014年05月22日ブログの噺

    自然解凍

     本日は、中間考査最終日です。

      新学期が始まってしばらく、張り詰めたような緊張感があり、教科担当の先生の様子をうかがうための静寂が教室を覆っていましたが、生徒たちが「ああいえば、こういう」という、ある意味、活気のある雰囲気が教室に戻ってきました。そろそろ学校の暦に合わせた「啓蟄」が訪れ、辞書の説明によれば、「冬ごもりしていた虫たちが地上に出て活動を始める時分」になっているようです。生徒を「虫たち」にたとえるのは少々失礼な気もしますが、暖かい季節の到来に応じて、モゾモゾと「蠢(うごめ)く」様子が、どことなく比喩としてぴったりなのです。

     「これくらい元気がある方が、若者だらけの学校らしくていいなあ」「そうですね」

     こんな風に、余裕しゃくしゃくで考えられる内はまだよいのですが、クラスによって時には、雰囲気の盛り上がりが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」状態になることもあります。様々なサイズや環境が異なる部屋が無数にある、大きなビルディングのエアコンのように、各クラスの雰囲気は、「集中制御」がとても難しく、絶えず微調整が必要なのでしょう。

     職員室で、ある先生が言いました。

     「クラスで席替えをしたら、何となく落ち着きの無い雰囲気になったなあ。もう一度席替えをやり直すか・・・」

     総理大臣に衆議院の解散権があるように、担任の先生には、「伝家の宝刀」である「座席解散権」、平たく言えば、「席替え」という「職権」があるのです。教科担当の先生の声も聞こえてきました。

     「そうですね。先生のクラスは最近、ちょっとした『モグラたたき状態』で、たたいても、たたいても次から次へと新しいモグラが顔を出すみたいです」「そうだね。ゲームならば面白くていいかもしれないけど、学習能率という点では、あまり教室が落ち着かないんじゃまずいな」「『モグラ拡散防止条約』が必要ですね」「おとなしい『草食系』が、とうとう『草食獣』になってきた感じだ」・・・だんだん微妙な比喩が使われる、「専門的」な会話になってきました。

     そのやり取りを聞いていた、別の先生が言いました。

     「うーん。ところがね、ボクのクラスでは、試験前だからって雰囲気を少し引き締め過ぎたら、今度は急にムードが沈んで、活気がなくなってしまったよ」「授業内容を理解することよりも、静かにするっていうことに、『集中』しても困りますよね」「でもね、これでまた、試験の答案の返却が終わったら、文化祭が近づくということもあって、クラスの雰囲気が電子レンジでいっぺんに加熱したポップコーンみたいになると思うよ」「そうですね。そう考えると、冷蔵庫から出して、『自然解凍』くらいの状態が一番理想的かもしれません」

  • 2014年05月15日ブログの噺

    「カジュアル」

      授業中に週末の家庭学習でする課題について説明していたら、一人の男子生徒がこう反応しました。

      「マジすか?」「・・・・・・」

     若者が、よく口にするフレーズです。この頃では会社などでも、新入社員が年上の上司に向ってこんな言葉を使って、びっくりさせたり怒らせたりすることがあるそうです。古い考えかもしれませんが、教室でもあまり似つかわしくない言葉でしょう。

     「裁判所で、被告が裁判官に言ったら、心象を悪くする言葉だろうな・・・。漁師さんが、釣り上げた魚からこう言われたらどう思うだろうか・・・」。少し的外れな自問の後、気持ちをリセットして生徒に言いました。

     「あのね、宿題の説明をしていて、『マジじゃないこと』を言うわけはないだろ?」「それはそうですけどね・・・」

     「マジすか」の生徒が、何となく納得の行かないというか、釈然としない様子だったので、休み時間に廊下で、例をあげて説明することにしました。

     「たとえばね、強盗を企む犯行グループが、装備とか段取りの点で完璧な状態にしてある銀行の支店に行った。ところが、日曜日なので支店が閉まっていて、ずいぶん努力したけど、どうしてもシャッターが開かない。それでついに『カギの110番』を呼んだら、本物の110番が来て逮捕された」「何ですか、それ?」「・・・というような話を聞いたら、『マジすか?』って言ってもいいんじゃない?』「・・・今ひとつ、面白くないですよね、その話」「別にウケをねらった話じゃないけどね」

     少し感情の安定を欠きそうになりかけましたが、「大人げ」を失くさないように、般若心経の一節を心中でつぶやいた後、別の例を使ってもう一度説明を試みました。

     「じゃあね、たとえば僕が若い頃、ヤンキースでプレーしていた時、最初はネイティブの英語がまったく分からなかったけれど、しばらくして慣れて、だんだん意味が分かるようになった。そしたら、スタンドからの野次が気になるようになって、プレーに集中できなくなった・・・」「ありえーん」・・・反応が別のフレーズに変わってしまいました。

     後になって考えてみると、「マジすか?」というフレーズは、「本当ですか?」という事実確認よりも、単なる驚きの表現で、あまり深い意味はないのでしょう。自分で問題を引き起こして、「ノープロブレム」と言うよりも、罪は無いのかもしれません。

     それにしても、会社であれ学校であれ、本来公的な場として、言葉遣いに気をつけることが求められていたはずの場所で、ずいぶんとカジュアルなやり取りが交わされるようになったものです。「ああいえば、こういう」状態は、「トークの時代」である、現代の特徴なのかもしれませんが。

  • 2014年05月08日ブログの噺

    「習性」

     授業中の態度にやや集中力を欠く、一人の女子生徒に注意するために声をかけると、こんな大胆な発言がありました。

     「先生、うちのことスキやろ?」

     打者はもちろん、ピッチャーやキャッチャーにも行方が分からない、ナックルボールのような言葉です。

     度々、授業中に指導されることを、「自分に興味、関心がある」と考える、「ポジティブ・シンキング」から発された問いかけに、一瞬言葉につまりながらも、何とかコメントをつなぎました。「変化球」に空振りしないテクニックは、長い「選手生活」で身に付いているのです。

     「そうだね。うーん。たとえばね、森の中で見かける珍しい動物がいるよね。家で世話をするのは大変だし、毎日食べ物をあげたり、散歩に連れて行ったり世話をするのはメンドウだけど、たまーに森で偶然に見かけると、『あっ、見つけた。面白いカワイイ動物だな』と思ったりするような、ね。・・・そういう意味では『好き』かもしれないよ」「動物にたとえるなんて、先生、ヒドイ!」

     ちょっとまずい雰囲気になったので、「植物」に話題をかえてみました。

     「いや、花でもいいんだ。たとえばね、谷の上に見つけた珍しいカワイイ草花があるよね。わざわざ家の庭に植えるのは大変だし、毎日水をあげたり手間をかけるのはやっかいだけれど、たまーに山で偶然に見かけると、『ああ、きれいな花だな』と思ったりするような、ね。そういう意味では、『スキ』かもしれないよ」「それじゃあ、動物も花もいっしょですね」「まあ、そうだね。でもね、人間も動物の一種だから、動物でたとえた方がわかりやすいだろ?」「うーん。そうかな・・・」

     煙に巻くようにして、このまま、会話を「無事に」終了させました。

     長年、教師をやっていると、様々な生徒に接した結果、「霊長類なら何でも扱える境地に達したかな」と、思うことがあります。ところが、「人」は「霊長類」の中でも、言語をとおしてさらに高度に洗練された生き物なので、常に言葉のキャッチボールで「技」を「練磨」することが必要なのでしょう。

     「ピッチングも大事だけど、どんな変化球でも、時にはワイルドピッチさえも捕球しなくちゃならないしね・・・」

     ちなみに後日、別のクラスで「うちのことスキ?」と言われたという話をしたら、一人の女子生徒から、「それ、○△ちゃんでしょ?」と即座にズバリ「正解」が出てきました。

     「やっぱり、人それぞれ行動様式というか、『習性』というものあって、同じような言動を繰り返しているんだなあ・・・」

     しばらくして、ふと思いました。

     「もし、あの女子生徒に『習性』という言葉を聞かれて、『動物扱い』だと抗議されたら、『性質』か『性格』に訂正しよう・・・」

     こんなことを考えるのも、やはり「学校生活」で身に付いた「習性」なのかもしれません。

     

     

  • 2014年05月01日ブログの噺

    「ボーズ」

     3年生の授業で進学クラスの教室に行くと、2年次に比べて男子の数が増えている気がしました。

     「こんなにクラスに、男子生徒が多かったかなあ・・・」

     「男っぽい」教室の雰囲気に、なぜか少し「懐かしい」気持ちになりました。

     平成3年に普通科が男女共学になって、「共学初年度」の女子生徒数わずか1名からのスタートだったのですが、それからどんどん女子の数が増えて、現在ではその男女比率がほぼ半々になって、学内に女子生徒の姿が目立ちます。

     しかし考えれば、「男子が増えた」という印象の理由は、2年次まで存在していた「男子クラス」の「スポーツ特進」が、3年次に進学文系クラスに分かれて、「編入」されたせいでしょう。もう一度、教室を見渡して思いました。

     「ああ、そうか。だからボーズ頭の生徒が多いんだな・・・」。このクラスは、運動部に所属する男子が大変多いようです。

     昭和の昔、本校の男子生徒は1年次まで全員「坊主頭」で、進級してやっと、「刈り上げヘアー」が許されていたのです。こんなことが頭をよぎって、教室で思わず「むかし話」をしました。

     「男子全員が坊主頭の時、頭髪検査は簡単だったけどね」「どんな風に、やっていたんですか?」「厚紙に6ミリのところに線を引いた『検査器』を作って、頭に垂直にあてて、髪の毛が線から上にはみ出したらアウトだよ。『あっ、三本出てる!』とか言って」「それなら、検査もあっという間ですね」「もし再検査の判定になっても、学校に電気バリカンがあったから、わざわざ床屋さんに行かなくてもよかったしね」「家から散髪に行くお金をもらって、ごまかす生徒もいたんじゃないですか」「そういえば、月1回の頭髪検査を待っているやつがいた気もするな」「今でも、部活の仲間で髪を切り合っているクラブもありますよ」

     「坊主頭」をきっかけに、生徒との雑談が大変盛り上がりました。「関係代名詞」とか「仮定法」などという英文法項目とは違って、こんなテーマだと、教師と生徒が自然に共有できることが多いのでしょう。ところが、こんなやり取りの後に、少しは英語の授業らしく(?)という生徒の気遣いか、取って付けたような質問がありました。

     「先生、ところで、ボーズの複数形は、やっぱりボーズでいいんですか」「うーん。どうかなあ」。何かオチになるような答えを考えようと、1秒間で地球7周半のスピードで、脳波を駆け巡らせました。

     「うーん、きっとボージズだよ」・・・坊主頭が話題なだけに、「不毛な」回答しか頭に浮かびませんでした。

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