九高の四季

九高の四季

2011年9月の記事

  • 2011年09月30日ブログの噺

    「欠席理由II」

    ◇生徒もしくは保護者からの欠席・遅刻・早退届けのメモに、「家の用事のため」と、当然のことのように書いてあるのに、不思議なあるいは奇異な感じを抱くのは、私が鶴田浩二のように「古い人間」だからなのでしょうか。・・・こんな比喩を使うことが、相当古い人間の証拠です。◇昔なら、村中あげての木の実拾いや恐竜狩りなどで大人が家を空け、「家の用事」として幼い妹や弟の世話をするために、学校を休まなければならないというのは、生きていく上で仕方のないことだったでしょう。そんな昔に、学校があったかどうかということは、まったく次元の違う問題ですが。◇巨大隕石の落下による気候変動のせいで恐竜が絶滅し、やがて人類繁栄の時を迎え、唐突ですが、稲作が大陸から伝わり、田植え・稲刈り等の集団農作業が生業の中心になった時代にも、「家の用事」は、絶対的に学校を優先するものだったでしょう。・・・その時代における学校の存在の有無は、再び浮かび上がる緊急案件です。◇ところが現在では、学校の重みが、羽毛のように、いや、そこまではまだだとしても、羽毛布団くらいの軽さになったせいか、「家の用事」は、具体的な内容も示されないままに、「葵の紋所」や「背中の花吹雪」のごとく、無条件で通用するものになって来ているのかもしれません。話が、「水戸黄門」や「遠山の金さん」のレベルになってしまいました。◇理由は何であれ、一つの考え方として、教育をサービス業と定義する時、「欠席は、消費者としてサービスを受けるのを放棄していることになる」と捉えれば、皆勤することが「絶対にお得」なのですが、欠席した方が「儲かった」気持ちになるのは、冷戦が終わり資本主義ばかりがまかり通る時代に、高校生たちが「有給休暇」の概念を先取りして、身に付けているということなのでしょうか。

  • 2011年09月30日ブログの噺

    「欠席理由I」

     生徒の遅刻や欠席の理由で、「体調不良」という言葉がよく用いられる気がするのは、そもそも体調という言葉が、きわめて漠然としたもので、体の持ち主の主観に判断が委ねられるからでしょう。ある程度の年齢を過ぎたら、「体調良好」であることのほうが、むしろ珍しいのですが、若い高校生が、やたらと「体調不良」という言葉を口にするのは不思議です。◇「ボーイスカウトの『隊長』のおにいさんが『不良』です!」。野外活動中に、陰でタバコを吸ったり、こそこそと女の子にケータイで連絡をしている大学生リーダーの姿を見つけて、純真無垢な、ある意味世間知らずの少年が訴える苦情とは違って、「体調」について、「素行調査」をすることはとても難しく思われます。体調不良は、血圧や脳波や心電図などの客観的な検査の裏づけを求められない「一身上の都合」であり、学校で年一度実施される、検査界のオールラウンドプレイヤー・検尿ですら、その根拠を完全に解明することはできません。◇「一身上の都合」といえば、「法事」も欠席理由の切り札として、用いられることがあります。ところが、社会慣習についての知識や経験の乏しい生徒がこれを申し出ると、「祭日土日を含む連休の後、いきなり平日の月曜日に法事」という極めて不自然な日程になり、その信憑性が極度に落ちてしまう場合があります。「コレハ、イスラム教シーア派デハ常識デス」。もし、こんなことを言われれば、返答のしようがないのですが、そんな時には、思わずこう尋ねたくなります。「それでは、ラマダーンはいつからでしょうか?」

  • 2011年09月28日ブログの噺

    「時間の感覚」

    保護者からの電話で、「体調が悪いのでちょっと遅刻させます」と連絡があり、「わかりました」と了解しながら、うっかり「何時くらいに登校されますか?」とたずね損ねたら、その生徒が昼休み前に来たことがあります。「こいつ、きっと弁当を食べに来たんだ!」と教室で、別の生徒がからかう声が響くのを聞きながら、いろいろと事情があったにしても、「日本語の『ちょっと』という副詞が、こんなに時間のスパンが長いものだとはなぁ・・・」と、少々あきれてしまいました。それはまるで、「人の主観によって、時間は自由自在に伸び縮みするものである」という、物理学的な主張をしているかのようです。確かに、同じ時間の流れ方にしても、「給料日を待つ前の1週間」と、「仕事の締め切り前の1週間」の時間経過のスピードは、まったく正反対に感じられるもので、この2つを同時に心に抱えている場合、「時間が早く経って欲しい」と思うのと、「あまり早く時が過ぎて欲しくない」と考えるのと、矛盾というべきか、相克する気持ちの板ばさみになって、「あやしうこそ ものぐるほしけれ」という、精神状態になることがあります。「こういうことは、一般相対性理論と関係があるのでしょうか?」。思い切って、物理の先生にたずねてみましたが、曖昧な微笑を返されただけでした。確かに、返答のしようがない質問です。

  • 2011年09月27日ブログの噺

    「母の思いやり」

    ある先生から聞いた話です。朝のホームルームに出席していない生徒の家に電話をかけると、お母さんが出て、こんな返事が聞かれました。「あっ、すみません。○×は、たった今、家を出たところです」。まるで、お蕎麦屋さんが出前の催促に応じるような答えでしたが、電話の向こう側で、なぜかお母さんがとても恐縮している様子なので、申し訳ないような気持ちになりました。「もう家を出られたんですか?」「はい・・・」「あのぉ、実はですね、○×君が、もし家にいらっしゃったら、ちょっとお伝えしたいことがあったのですが」「あっ、そうですか。えーと・・・まだ、家におります」。微妙なシンコペーションのような、少々リズムが崩れた間合いに、お母さんのかすかな逡巡を感じましたが、どうやら、「追加注文」に間にあったようでした。ところが、しばらく間があって、電話口に出てきた生徒は、眠たそうな声で、正直にこう言いました。「おはようございます。寝坊して、今、起きたばかりです」「そうかぁ。そりゃ失敗したなぁ。できるだけ急いで制服に着替えて、学校に来なさい」。先生は、あまりもの率直さに叱る気にもなれず、お母さんがさりげなくカバーしてくれた思いやりについて、いつか必ずその生徒に伝えようと思ったそうです。「お母さんも苦しいところだったんだよ。いつか恩返しをしなくちゃね」。

  • 2011年09月26日教育雑感

    近江商人に学ぶ

     大阪商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人とされる近江商人は、主に鎌倉時代から江戸、明治、大正、昭和の時代にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人を指します。この近江商人には次のような特徴があるそうです。

     1.バイタリティに富んでいること
     2.優れた情報力を備えていること
     3.柔軟な発想と思考力をもっていること
     4.情けに左右されない合理精神をもっていること
     5.優れた決断力をもっていること
     6.果てしない上昇志向をもっていること

     近江商人の商法の根幹は『行商』(店を構えず、商品を持って売り歩くこと)にありました。非常に行動的な近江商人の人生態度には、学ぶべき点も多々あるようです。ちなみにこの近江商人の行動力は、かの有名な俳人松尾芭蕉の影響(指導)もあったとか。確かに近江商人の行動力は、流浪を重ね行動力に富んだ松尾芭蕉の人生に通ずるものがありますね。

  • 2011年09月24日教育雑感

    An English Quote

    The first two letters of the word goal spell GO.
       George Eld


    ゴールの最初の二文字は“GO”だ (ジョージエルド)

    何ごとにおいても行動なくして目標達成などありえません。日本にも「千里の道も一歩から」ということわざがあるではありませんか。目標達成がどんなに困難な道のりであったとしても、一歩一歩確実に前進すること!「座して待つ」という消極的な態度では、決して道は開けないのです。ちなみに「千里の道も一歩から」という意味の英語の言い回しは、
    'Even the longest journey begins with a single step.'

    が一般的です。

  • 2011年09月22日ブログの噺

    「よけいな一言」

    先週の土曜日に行われた「オープンスクール」において、体育館行事の司会をした先生から聞きました。「司会といっても、行事の流れを案内するだけで、大したことはしてないんですけどね。職業柄、人前でしゃべることに慣れているので、あまり緊張はしないのですが、ついよけいなことを言いたくなる時があって、その気持ちをやっとのところで抑えました」。「職業病」というものは、様々な形で存在するようです。さらに、コメントは続きます。「『しゃべれない』というよりも『しゃべり過ぎる』ことへの恐れが常にありますね。テレビ番組ならば、後で編集ができるからいいんですけど、授業や行事は常に「ナマ放送」「ライブ中継」なので、思いがけない言葉が口に出ることが恐いです」。政治家ほど世間に与える影響が強くないとしても、学校現場で常に教育的であろうとするならば、慎重を期さなければなりません。ふとここで、かつて本校に在職された先生の、インパクトの強いコメントを思い出しました。その先生は、生徒指導をしている際に、叱責として次のように言ったのです。「お前たち、いい加減にしろ!お前たちの行動は実に情けない。そういうのを世間ではバカという。お前たちのことを表現するのに、無理やり引き合いに出されて、馬さんや鹿さんにすまないと思わないのか!!」。さらに記憶を遡れば、はるか昭和の昔、動物の名前を用いた比喩がよく使われていた気もしますが、それはその当時の本校が、元気とエネルギーに溢れ過ぎた「野生の王国」に近い雰囲気を湛えていたからなのでしょうか。世間一般を考えても、今思えば危険な、よけいな一言が氾濫していた、「自由奔放」な時代だったのかもしれません。ちなみに、よけいな一言のことを、英語では “one word too much”と言います。と、これも、よけいな一言でした。

  • 2011年09月21日ブログの噺

    「リュック隊」

    先日、体育祭の片づけや生徒指導を全て終えて、3人の男性の先生が帰宅する前に、タイムカードを打刻するために1列に並んでいるのを見て、不思議な感じがしました。3人ともリュックサックを背負っているのです。日に焼けた顔と立派な体格の教師が3人、偶然なのか、それとも申し合わせたのか、背中に荷物をからっている姿は、まるでアマゾン川流域やミンダナオ島の熱帯雨林をさまよい歩く探検隊のようでした。間違っても、これから男3人で花火を見に行く風情ではありません。もっとも、リュックの中にユカタが入っていれば話は別なのですが、この3人の浴衣姿を想像するのは、体育祭で疲れている身にはずいぶんこたえそうです。「リュックで通勤って、今、流行っているの?」。こうたずねると、リーダー格の先生が答えました。「えぇ。時代はリュックです」。うっかりぼんやりしている内に、まったく時代の趨勢を見逃していたようで、通勤用の普通のショルダーバッグは、今やもう「時代遅れ」なのだそうです。タイムカードを打ち終わって、3人が隊列を整えて職員室を出て行く姿は、カルガモの親子のようにも見えました。「それにしても、大きなカルガモばかりだなぁ」。隊列が崩れて、横並びになって歩いている姿が、窓越しの遠景に見えると、リュックの「リーダー」が、左右にリュックのお供を連れた、まるで水戸黄門のようでした。3人は両手が空いているので、野に山に、さぞかしいろいろな活躍ができることでしょう。

  • 2011年09月20日ブログの噺

    「プライベートIII」

    先週のブログを読んだ先生から、「学校の近くならまだしも、何と、『先生の姿を国外で見かけました』と言われたことがある」という話を聞きました。いくらグローバル化が進み、地球が狭くなったといっても、まったく油断もスキも見せられないものです。「釜山(プサン)のフェリー乗り場で、私を見かけたっていう生徒がいたんですよ。それからどうも同じフェリーに乗って、帰ってきたみたいなんですけど・・・」。何となく不安そうな表情だったので、そのわけをたずねると、「疲れていたので、フェリーの座席で座っていた時、ぐっすり眠ってしまったんです。もしかしたら、生徒に、口を開けて寝ている姿を写真に撮られたかもしれません」。確かに生徒にとって、韓国・釜山で知っている先生の姿を見かけることは、正月にハワイで過ごす芸能人に遭遇するのと同じくらい、関心が高いことかもしれません。まさに近場の海外旅行は、「油断大敵」です。ふと、こんなことを思い出しました。「そういえば、今から10年以上前、香港で同僚の先生に偶然会って驚いたことがあったなぁ・・・」。香港の観光地でビデオ撮影をしていた時、ファインダー越しに、「見たことがある後姿だなぁ・・・」と思わせる人影を見つけて、思わずズームアップしたら、「見たことがある」ご本人だったのです。「○×先生!」「あーら、何でこんなところに!!」。驚きのエコーが響きました。プライベート旅行中に、突然出現した知人の姿は、驚愕・喜び・とまどい・困惑など、様々な感情からなる多面体を、いきなり3Dで見たような気分を味あわせてくれたものです。そして、こうも思いました。「もしこの遭遇が、サハラ砂漠や南極大陸やボルネオの密林の中で起こったのだったら、『感動』や『感激』の気持ちが湧いていたかもしれないけどなぁ・・・」。

  • 2011年09月20日教務部より

    三つの幸せ

     イエローハットの創始者でもある鍵山秀三郎さんの著書『人間を磨く言葉』の中に幸せに生きるための具体的な“三つの幸せ”が紹介されています。 その一つは「してもらう幸せ」、二つ目は「できる幸せ」、そして最後は「人にしてあげる幸せ」です。この三つの幸せの中でも最後の「人にしてあげる幸せ」が最高の幸せなのです。人は「してもらう幸せ」から「できる幸せ」へと進み、そして最終的に「人にしてあげる幸せ」を味わえる人生を送れるようにならなければなりません。教育においても、「してもらう幸せ」にとどまらず「できる幸せ」「してあげる幸せ」を感じることができる生徒を育てることがとても大切なことだと感じています。

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